集積

書きたいときに書くだけ

22歳

そういえば先日誕生日を迎えて22歳になったので、一応いくつか記録を残した方がいいような気がしてきた。書く。

まず、21歳の目標がなんだったのか忘れた。だから達成したかどうか不明。毎回誕生日ごとに目標を決めるのに、おざなりになって達成できなかったり、今回なんて最低最悪の事態だ。次はない。

22歳の目標は、余裕を持って生きること。父親からもらった誕生日のお祝いの言葉と、自分の考えに従って。ひとつひとつを丁寧に。

22の一年は、色々なことが起きる予感。兆候があるし、私もそういう風に事が運ぶように行動している。恋愛も、勉強も、方向性もだんだんと見えてくる一年になると思う。色々な納得をすると思う。なるべく憂鬱になる出来事は少ないといい。ただでさえ低空飛行なんだから、これ以上地は見なくて済みますように。(とはいっても人と比べると私はかなり幸福な方らしい、という実感が昔からあるのでこの点はもはや願いというか我儘に近い)

ともかく、多くのことがいい方向に向かっていけばいい。そして最終的に私の周りにもそれが広がってほしい。切に。

様式美を超えて

友達とジュエリーの話になったときに、ルネサンスバロックどっちが好き?と言われて私は答えられなかった。両方とも好き。ブチェラッティもカッツァニーガも、それぞれ良さがある。両方ともずっと浸っていたい世界だ。間違いなく。

バロックが栄えるものとするなら、ルネサンスは再生されるものだと思う。栄えて、枯れて、再生される。永遠に変わらない輪廻。私はめちゃくちゃ壮大な女だから、こういう普遍でデカい存在そのものに惹かれる。「様式」と括るには畏れ多いものだけど、ファッションなり、アートなり、あらゆる表現にこの要素は様式として定着している。

そんなわけだから私は極端に言うと節操がない。好きなものを一つに絞れないから。

でもことスタイルに関しては、これというべき好みがある。ファッションでいうなら、Rick Owensみたいな色彩に乏しくシンプルだけどドレープがものすごくきれいな洋服(ドレープは無駄が極限まで排除されないと美しくならないと思う)に、アンティークのジュエリーをすること。画家でいうなら、フランシス・ベーコンみたいな、全てに嫌気がさしたかのような破壊的なビジュアルの下に何度も塗り重ねられた絵具が愛しい。極端な要素同士が調和したものほど惹かれるものはない。もちろん他にも好きなスタイルはあるんだけど、こればかりは本当にロマンを感じる。

「?????」というこたえ

祖母の死が迫る中、二週間にもおよぶ海外旅行に踏み切った自分を人でなしだと感じた。旅行から帰ってからも祖母は懸命に命をつなげていて、それで自分の罪が購えたわけではないが少しだけ罪悪感は軽減された。

近しい親戚が死に向かっていく姿を見るのは私にとって初めての経験である。祖母は老衰によって物忘れがひどくなり、寝たきりになり、今では瞼を重くして言葉を発さなくなった。人は誰だって死に向かって生きていくし、最後にその人が所有できるのは自らの死だけだ。それほど深刻なテーマではない。でもなぜだか私はそのありふれた死を感覚的に回避できないかと嘆く。別に祖母がすごく元気だった頃こんなに祖母の生命について考えたりはしなかった。だけど急に祖母からエネルギーを感じなくなった途端いっきに生命を感じて悲しくなった。エネルギーは攻撃性と言い換えることができるかもしれない。ベッドに横たわる祖母からは力も言葉も失われ、眠りが大半を占め、時々瞬きと微笑みと苦悶の表情が点滅する。彼女からは私たちに対する攻撃性が一切失われている。きっともう必要なくなったから捨てたのだ。そうしてただされるがままに存在している。手をにぎるとたまににぎりかえしてくれる。でもそれは赤ん坊の反射にも似ていて、本来そなわった本能だけのようにも感じる。沈黙が、よりいっそうあらゆる無力さをひきたてる。いまここで私が何をつづろうと何の意味にもならないことを私はよくわかっている。

何のために生きているかというと生きるために生きていると思う。生きるために攻撃性やら愛情やらを持ってしまうのは仕方がないことだ。生きる事に理由を求めても意味がないとおもうし、どうせ浅はかな思考に至って気が病むに決まっているんだ。必要のないことは捨てたらいいのだ。

ここまで書いて自分には言いたいことが何もないというのがわかった。

人の死を前にして思うことはただかなしいと感じることだけだった。

ただ春の夜の夢の如し

自分が浸っているこの嗜好、フェチにどんな名前がついているか知りたい。そうすれば、いつだってぐぐればめぐりあえるんだけど。

わたしの呪物崇拝は飽きれるほど不定形なので何て表現すればいいか難しい。端的に言えば諸行無常の概念とか、視点そのものがフェチ。「『優雅さ』と『退廃』」とか「『破壊』と『再構築』」など、有限の存在が時に栄え、時に壊され、時に再生し、時に滅んでいくその一瞬一瞬をつなぎとめる、見えはせずとも確実に存在するであろう永遠の理を感じるのが好き。.....書きながら、感覚でモノを言うのも大概にしろと独り言を言ってる。説明しようとなると偏執狂みたいになって嫌だ。んーなんだろうな、つまり古典が好きっていうのが一番人にわかってもらいやすいのかな。古典は時間的なものをほとんど超越する。ミケランジェロピエタみたいに、息子を見つめる母親の眼差しみたいに、いつの時代もきっと変わらず優勢を保ち続ける大きな存在。そういうものに意識的に平伏すのが好き。私たちは古典に支配され続けていくしかないのに、それに気づきもせずに怒ったり泣いたり笑ったりしていて、何て愛くるしいんだろう。物事をすごく遠くの視点からぼうと眺めて憂いに浸るのが好き。

香水①

最近、定番嫌いの私がある日突然何を思ってかクロエのオードパルファムを買った。比較的ナルシシズムに基づいてしか香水をつけてこなかった私は雷にうたれた気分だった。なにを感じたかって、楽を覚えた瞬間に感じるあっけなさと喜び。香り自体は好みかと言われたら全然好みじゃない。でも嫌いじゃない。嫌い度がゼロなのがすごい。そこに感動した。以来私はよくクロエをつける。決して気合を入れるためにではなく、むしろ脱力しきって何も考えたくない日に。自分にほとんど干渉せず、他人には決して疎まれない残像を落とす。マイナス要素の低い香水って良い香水だと思う。定番っていう響きは好きじゃないけど、定番の意味や価値がようやくわかるようになった。

とても四月

学生会に入って初めての活動が、去年の今頃入学式の準備をしたことなんだ。で、今年度の入学式が明日に控えていて、今日はその準備をしてきた。同時期に入会した子と、「去年もこんなことしたよね」という話をして笑った。一年がたつのは早い。

初めての事は何だって大変だ。学生会の活動もそうだったし、去年も一昨年も、新しい環境に慣れるのに苦労した。同様にして、これから始まる一年も、先に何が待っているか予想がつかない分、ぼんやりとした不安で満ちてる。はやくこのもやもやから解放されたい。

今年度の目標を今のうちに定めたい。責任感をもつことかな。幸運にも責任の重い役職を与えられたから、いい機会だろう。無理をしない程度にやろう。そのほかに、人見知りを治すこと。地元で休暇を過ごした直後は比較的誰とでも普通に話せるんだけど、ずっと一人暮らししていると塞ぎ込んでコミュニケーション能力がゼロになる。不思議だけど本当にそういう傾向にあると思う。テンションの維持に全力をそそぎたい。

メモ癖とこの時期恒例の憂鬱

携帯電話を持つようになってから、気になったことをすぐにそこにメモする癖がついた。悪いことではないが、自分の脳みそを使う努力もせず、「外付けハード」に依存するのは果たして良いことなのか。仮に良くないことだったとしても、以降もメモを控えられる自信がない。一度楽を覚えるとどうにもならない。

 

さて、四月になった。じき大学がはじまる。都合がいいときには時がたつのが早く感じられ、そのあとに待ち構えているのは大抵都合の悪いことだ。誰だってそんなものだろうから、いちいち気にするのは馬鹿げてる。だけど今日は特にそういった今後の辛い現実を直視する機会がいくつもあって心底気が滅入った。たとえば同級生や先輩から、新入生歓迎会の話や、会計の仕事の引継ぎについての連絡があったりした。「ま、気楽にいけよ」と自分でも言い聞かせるのだが、感情のコントロールはなかなか難しい。