集積

書きたいときに書くだけ

春休み総括

春休み総括


ほとんど家にいて、映画を観たり、小説を読んだり、絵を描いたり、ときどき友達に会って楽しむささやかな休暇だった。春がきて枯渇から生命が蘇ってくるのを散歩しながら観察していった。上流階級への謎のコンプレックスが急に取るに足らないものと思えた。でもあまり無欲になりすぎるのもよくないかな。あんなに熱意のあったファッションへの興味が極薄に薄まった。



◎言葉を知るたびにそれに縛られる

特に読書などで新しいことばや、定義を植えつけられると、知識量は増えるかもしれないけど、例えばあるひとつの感情もそのことばの分だけ枠に収まった伝え方しかできなくなる。言葉を使うたびに自動的に諦めざるをえない何かが自分の中で見える。だから喋るのがあまり好きになれないのかな。書くのは好きだけどね。(まぁ文字自体にもかなり問題はあるんだけど...)


◎稚拙さを恥じない

どうあがいても井の中の蛙なのに、それを否定することは自己破壊的でしかない。これは他人に対してもそうで、他人の無知には付き合うべきだが、訊かれない限り今抱えている1つの誤った答えを相手に教えるべきでない。愚かだ。


◎他人との距離の遠さに安堵するくせにこの縁が切れませんようにと祈ること

自分以外の人間は家族すらも自分とは全く違うタイプの考え方をする。その差異をいちいち詳らかに嘆く習慣が私にはなくそれどころか常に無意識に他人との距離をコントロールするという邪悪なことを平気でするのだ。他人を自分の尺で測ってどれくらい寄り添ってどれくらい突き放せば依存されないかあるいは依存するかと最悪な計算処理をし、それをもって心の落ち着きを得て、そんな非道を繰り返しながら、都合よく私は相手といくらかの距離を隔て続けたいと思う。どれだけ近づいてもどうせ孤独で、でもそれでいいし、相手がもしそれに耐えきれなくなったらその時は私の気まぐれだ。文字にかえてようやく自分が冷酷だと感じる。


◎高齢化に伴い流行る健康志向、そしてその不健康さと宗教性について

体にいい食べ物と体にいい習慣を必要以上に多くの人が気にしすぎである。不気味なほどだ。かえって不自由にならないのか。体に障るのではと思ってしまう。それともその束縛がかえって魅力なのか。健康の概念の布教にうんざり中。病的だ。


離人

休み中に一度、明確に襲われた。久々に感じた離人感をとても懐かしく思った。かがみにうつる人間を経験上自分自身だと心得ながらも、拭えない乗り物感。操縦席から広がる視野でしかないと感じてしまう感覚。さすがに幼い頃のように聴覚までおかされることはなかった。この静かなる陰性発作はたしかに調子は狂うけれども、なぜだか奇妙な愛着がある。発作のあとは、自分のことをとても愛しく思えたりもする。


◎スピリチュアル()な

あまり体系立てるとアホくさと思うばかりなのだが神様的なものとか運命とか宿命とかそんなもののことを暇すぎてちょっと思ったりした。

自分は成功の星の元に生まれたと感じるし運にしたって尽きるものと定義付けたことはない。あ、これはただの自身過剰というやつかもしれないけど。

さて神様なんていてもいなくても私個人には実質的になんの足しにもならないけど、なんとなく気配を感じる。我ながら書いていて最悪だと悪態をつきたくもなる馬鹿馬鹿しさだけど。でも素直に言うなら感じる。神も霊も魔も目に見えないけど気配が、そしてそれらを区分しうる明確な違いが確実にあって、感じる。正体がなんなのかしらないけどそれらと共存していることに疑いはない。

ひとおもいに

めくるめく大学第4学年を修了した。これで人生何度目の春休みになるだろう。とりわけ大学に入学してからというもののここ数年は春休みの到達感が感無量と言った感じだ。自分なりに頑張ったなぁと思えてくる。そこにさらに付け足すなら、相対的にどうあるかということもいまや自己評価に集約されているというのもポイントだ。とにかく年々バージョンアップしているはずだ。そしてまだまだ完璧とは程遠い。


さて、この春休みは何をしようかと考える。映画を見ていいし、友達と飲みに行ける、海外にすら行ける、もちろん勉強してもいい。改めてこのように何だってできる環境が与えられるとかえって特に何も思いつかないものだ。毎年そう思いながらうたた寝をする。この時期の肌寒さもあたたかさも、眠るのにはちょうど良い。布団が気持ちいいし、目覚めもなかなか快適。とにかく何をしても幸せかもしれないと感じることができる。しかし一方で私は遊ぶのには向いていない。遊ぶというのは具体的に他人とのコミュニケーションを伴う遊びだ。責任のない会話が苦手だ。いつどこで義務や責任が発生するのかわからない点が。距離を測りかねる。親でさえそうなんだから他人なんてもっとそうだ。最初から役割が与えられればいいとさえ思う。いっそのこと私はさっさと働きたい。このモラトリアムは、そんな突発的でくだらない恨みごとを想起するためだけに用意されているのかな。本当に呪われているよ。旅行に行ってしまえばそんなことを考えなくてすむし、快適な時間と、ほどほどの緊張感が得られる。だけどそれには金が要る。それだけのために、特に行きたいという強い情熱があるわけでもなしに、おそらく三十万じゃきかないような大金を勝手に使ってよいものかと思う。金を稼ぐのは大変で、それでいてその金を稼いだのは私ではない。早く私も稼げるようになりたい。だけど稼げば稼ぐほど、長い休みはとれず、結局旅行にはいけなくなる。ということは、もしかすると、旅行に行っていいのはただの私だけなのだな。行けば何かしら楽しめるかな。物珍しさとその他いろいろな感動をまた味わうことができるかな。危険な目にあわないかな。母さんやお姉ちゃんに相談して決めよう。

墓になる

四年生の2月には人生を左右する全国一斉試験がある。そろそろ重い腰あげるか....というパッとしないトーンで後期も11月まで進行している。重い腰はあげてるのかあげてないのかよくわからないほど地面すれすれ。重くない腰がほしい。

さすがに11月にもなれば皆勉強やってるって、ひとからそんな話をきいて焦ってきた。でもまだ心のどこかでフェイクじゃねえかな?っていう誰なのかよくわからない声がきこえてまだまだ心臓バクバク状態には陥ってない。卒後笑えるなら心臓バクバク状態にでもなんでもなって必死に勉強するべき。
でもいま他にきになること色々あって....!ん〜〜〜!どうしてひとは刹那的なことにこうも夢中になるのかな。欲に負けちゃうのはなぜですかな。叱ってくれるひとなんていないことにもいい加減なれて、自分でマネジメントしなくちゃだめ。わかってる、わかってる、わかってるぜー!!!なにをすべきかはわかってるぜー!!!!

一生シングルベルなきがする。おなじみのえのけんはキープ状態。もう知り合って一年以上ずっと距離縮まらない。しかしいつ勇気付いたか知らんが最近彼からやんわり追いかけてきて、わたしは喜びと困惑で±0!最近はわたしが距離をはかってるかんじ。
いま一番好きなのは外科の先生!さっくんって呼んでる。珍しくリア充属性。でももう32歳だし、そんな性格も少しはマイルドになっててもおかしくない。彼女の有無は知らない。.....ただの憧れだから別にいいんだよ!アーーーーツライ

なぜこうも絶望を希むのか。

美しいと思う情景というのはどこか廃れてて、延長線上には一筋の死が差しこんでいる。周囲には無限がただただあって、到底かなわないという無力感を実感する。そして安心する。

 

悲しみや空しさ、孤独にたいして、恐怖だけじゃなく喜びがある。憧れているのかもしれない。だけどそれは心の中にだけあればいい感覚で、実生活であまり長く触れるとからだによくないかもしれない。触れたいと思えば孤独はいつでも心をさらっていく。ほどほどにしないと。

最近、ずっと冴えない。いつも不機嫌でさびしい顔をしている。誰にも心配されないほどに。心配なんてされたくないから、きっとそれが伝わっているんだと思う。楽しいことが過ぎ去ったから今が色あせて感じるのかな。感情がもたもたしていて、時の速さについていかない。今ここにいる感覚がなくて、周りがなんだかずっと遠い。いつまでも終わらない遊園地みたいだ。あざやかさに対する憧れなんてわからなくなった。多くの人がつとめて明るく笑顔を絶やさないことについて理解ができなくなってきている。精神の状態が悪い。

悶々メモ

先のことを考えるのに相応しい時期はいつだろう。人と比べることじゃないから、自分でやっていくしかないんで、自棄になりそう。ある程度流されて、重要なときだけ舵を切ればいいのだろうけど、重要なことの全てに親切に【重要】の注意書きがあるわけじゃない。水面下にいくつも色んなチャンスはある。大学まで進んで、粗方の方向決めはもう終わった。だけどまだ小さな分岐があって、どんな種類のチャンスが沢山眠ってる方角を目指したらいいのかとか、仕事面ならず結婚面の取捨選択も必要と思われる。気持ちとしてはそっちも今は重要な気も。これは宛がない故の焦り?だとしたら死にたくなる。


人と話していて漠然といいなぁと感じたら無条件にその人き引き込まれる。話の一つ一つに、あるいは部分部分に、一理ある一理あるが累積していって、私の中で曖昧な自我が築造されていく。こっちをじっと見つめているそれは、いい意味でも悪い意味でも所在がない。私は何かを天秤にかけながら、一人だけの山を築いていくタイプだ。誰かと議論しながら協力して何かを生み出すタイプじゃない。他人に対して共感する部分と疑問に感じる部分を蓄積させてアイデンティティーを探ってるようなところは結果を出すというよりも経験を積むことに重きがあるのかな。とにかく矢印の方向は常に自分を向いている。この矢印は実はもっと外に向けた方がいいのだろうか?そしてその場合それは可能か??どうしたらいいんだ???

哀愁と迷い


私は過去の収拾をつけることを昔から放棄している。22年生きていて、数年前を意図して顧みることをほぼしない。思考する上での議題としては、過去の出来事よりも今現在の出来事の方が意味を持つ気がするから。そんなわけで、必要性を感じていなかった習慣なんだけれど、ひょっとするとその考えは間違っているかもしれない。


私は誰かと二人きりで、時間を気にせずにわりとパーソナルな話をするのが好きなんだけど、ある人と偶然「あの頃は何をしていたか」という話になって、その人の過去の出来事を聞く機会を得た。それは、思い出と感情がしっかりとリンクしたものだったので、聞いていてとても心地よかった。年齢を重ねて懐古や昔話をし慣れた老人は往々にしてこんな雰囲気で私たちを慰めてくれるけれど、淡さと情熱とが混じり合った不思議な視点から出される彼の言葉は、どこか浪曲めいていて随分と聞き入ってしまった。また、一方で彼は若者らしい迷いや不安も平行して垣間見せてくれるので面白い。彼は他人から退屈だと思われることを恐れているらしかった。その哀愁にしてその初々しい悩みはあまりにもバランス感覚に欠けているだろう、と思って思わず笑ってしまった。

私は他人に威圧感を与えてしまうこと(自分を適切に表現することが苦手)が悩みなので、彼との会話からはたくさん学ぶものがあった。私もたまには昔を懐かしんで、当時の出来事を整理してみようかな。そうすれば、自分を晒すということが今よりちょっとは苦でなくなるかも。

まばら

先月から映画館へよく足を運んでいる気がする。今月に入ってから見た映画はどれもよくて、終わった後にすっと浄化されるような感じがした。ざっと三作ほど。

ニンフォマニアック、トムアットザファーム、アルゲリッチ 私こそ音楽!

それぞれ全く違う映画だけど、どの作品も人の持つ奇妙な心理について垣間見れ、そういう点で共通している。ニンフォマニアックの言葉の意味は色情狂だ。愛とかってなんなんですか?知る必要もないわよ、と言わんばかりの主人公だった。でもどこか遠いところから、愛情みたいなものをじっと観測しているみたいな様子もあり、パンクなおとぎ話という感じをうけた。トムアットザファームは、タイトル通り、ある限られた一地点でのトム(主人公)について描かれる。それは彼の暮らしぶり、心地いいと感じるもの、執着、嫌悪、思い出といった様々な人格を構成する成分を農場という限られた舞台からきりとってる。農場以外での彼の人格や生活は何も描かれていないが、おそらく街での彼はまた別の人格だろう。たとえどんなに歪んだ環境でも人は何とか愛情らしきものを見つけて、それに沿って価値観を変態させる力があると見受けられ、ちょっと怖いなと思った。最後に、アルゲリッチ(以下略)。これはドキュメンタリーだ。母であり天才ピアニストでもあるマルタ・アルゲリッチのプライベートな面を、彼女の娘(あるいは娘たち)の視点で還元している。「私にはそれほど重要な人がいないのよ」と娘に面と向かって躊躇いなくこぼすようなマルタだが、同時に「私はあなたが好き、一緒にいて心地がいいし」みたいな事もいう。そんな気ままで不安定な母親を持った子供のうちの一人は、落ち着いてその受け皿となったようで、彼女を「女神のようであり、赤ん坊のようだ」という。また別の娘は、「彼女みたいになりたかった、だけど今は自分自身になりたい」とのこと。反面教師ともいえるし、ガイドプランともいえる彼女たちにとっての母の姿は、『お手本』という意味での母親からはおそらくとても遠い。ひとりの人間として見る以外に、心の距離が測れない位置にきっとあるのだ。私は結構このドキュメンタリーに共感してしまった。私の母もこういうタイプだ。たまに聖母みたいに見えたり、守ってあげなきゃいけない存在にもうつる。自立というより浮遊してる人という風におもえる。

人の愛情はめっちゃくちゃ多岐でわけのわからない崇拝や願望、時に興奮、苦しみ、逃避、などなどを肥やしにしてるのかなと最近漠然と思う。

愛はときに自己破壊につながるかもしれないし、あるいは周囲を巻き込んで大きな役割になるかもしれない。幸か不幸かはさておき、私は見聞の領域を超えた経験があまりに不足しているので、こういう娯楽映画すらまともに理解できているか怪しい。

皆日ごとに数秒おきに違うことを考える。他人にいい顔をしようと態度をかえてく。他人からの評価を気にするあまり、自分の虚像を投影した他人からの評価(他人も色眼鏡でこちらを覗いている)を気にしてる。ややこしいけれど、よくよく考えると人間関係は全て幻想から成り立ってる。愛は思いのほか超自然的に生まれてるのかもしれない。そういうことをこわいと感じるよりも、試合の原則と捉えてしたたかに計画を練るのもまた面白いような気がする。もう話がめちゃくちゃに飛んでしまって楽しくなくなってきたので終わりにする。